【「人は二度死ぬ」って、本当ですか?】先祖供養は、できる範囲でOKなんです! みんな、終活一年生

【「人は二度死ぬ」って、本当ですか?】先祖供養は、できる範囲でOKなんです!

こんにちは。終活プロデューサーの池原充子です。

人は二度死ぬ。

  • 一度目は肉体的な死。
  • 二度目は、自分の存在を忘れられたとき。

と言った感じの言葉を聞かれたことがありますか?最初にどなたが言ったのかわかりませんが、結構キャッチーな内容なので、いろんな場面で格言のように使われているようです。

終活的側面から見た言葉の意味

写真と花「私(亡くなった人)が存在していたことを忘れないで欲しい」 誰しもその思いはあると思います。自分が生きた痕跡を残したい、という思いは、例えば卒業する学校の教室にある机に落書きをしたり、思い出の場所の壁や柱に名前を刻んだりする行為に表れていますよね。

特に、お子様を失くされた親御さんや、愛する人が急になくなってしまって心の整理がつかないご家族にしてみると、亡くなった故人が、時と共にだんだん忘れ去られていくむなしさや寂しさは、言葉にしがたいものがあると思います。存在そのものがなくなってしまうのではないかという恐怖感との闘いなのかもしれません。

仏教的に見た言葉の是非

結論から言うと、「人は二度死ぬ」は、仏教の教えではありません(宗派により諸説あり)。仏教では、人は亡くなると、次の世に生まれ変わります(人間に生まれ変われるかどうかはわかりませんが)。ですので、仏教の僧侶が 「いつまでも忘れずに、折に触れて故人を思い出してあげることが何よりの供養です」 と言って追善供養や法要を強く勧める場合は、要注意です。

先祖供養する男の子

むしろ 「亡くなった方の死をしっかり私たちの心に刻み、自分たちの命も終わるときがくるということを意識して生きていきましょう。」 と言うべきなのです。亡くなった方はすでに次の道を歩み始めています。

今を生きている私たちは、そのことを確かめる術がないので、仏教の僧侶のような宗教者が「忘れずにいることが何よりの供養」的なことを言うと信じてしまい、「故人を忘れてはならない。覚えていてあげなくてはいけない」と深く思い込んでしまうのです。その思い込みが、後々自分を非常に苦しめることもあります。

存在を忘れることは悪なのか

今を生きている私たちは、亡くなった人が経験できなかった様々なことに遭遇します。

  • 良いことも、悪いことも。
  • 嬉しいことも、辛いことも。
  • 楽しいことも、悲しいことも。

環境も、モノの価値も短期間でどんどん変わっていきます。

「所有すること」がステータスだった時代から、「ものを所有しない」方が楽な時代へと変わってきています。

そんな中で、例えば、こんな言葉を残されたら、ご家族はどうされるでしょうか?

  • 家業をやめないでくれ。
  • 家を守ってくれ。
  • 墓をよろしく頼む。
  • 代々守ってきた〇〇を大切に。

普段でも、死に際でも、こんなことを言われたら、何とかしてその約束を守ろうとするのではないでしょうか? これは、執着という名の呪縛です。形あるものは壊れるように、全てのモノは、同じ状態ではいられないし、その場にとどまることはできません。

これは人間も同じ。永遠に生き続けることはできないので、亡くなった人を忘れていくことは決して悪ではありません。なぜなら、時間差はあるにせよ、自分もいつか同じように死んでいき、忘れられていくからです。

家を守ろう、墓を守ろう、亡くなった人を忘れないようにしよう、と思うがあまり、自分を苦しめなくてもいいのです。人は幸せになるために生まれてきたのですから、できる範囲で、できることをやればいいのです。

そしていつか自分もいなくなることを、忘れられることを、受け入れることによって、執着が少なくなり、本当の幸せに近づいていくのだと思います。自分が残したいもの、守って欲しいものがあるなら、なぜ?そうしたいのかの理由と共に、これからも生きていく人達に最終判断をゆだねていただきたいなぁと思います。

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